コラム「日本の新聞人」

国際記者の草分けの一人 高田元三郎(たかた・もとさぶろう)

 大正から昭和期に活躍した新聞人で国際記者の草分けの一人。

 1894(明治27)年1月1日、東京に生まれ、1917(大正6)年、東京帝大英文科を卒業して、大阪毎日新聞社外国通信部に入り、19年7月米国特派員としてニューヨークヘ赴任する。第一次大戦を経て日本の新聞が外電に着目し始めた時期、世界のニュースの中心になった米国への初の常設特派員だった。着任してすぐワシントンの第1回国際労働会議、21年末にはワシントン海軍軍縮会議を取材、各社の一流記者と知り合い、また速報を競った。翌22年2月ロンドンへ渡り4月にジェノバで開かれた第1回世界経済会議を取材、次いでドイツで戦後の猛烈なインフレなどを経験して、23年8月帰国した。9月の関東大震災では、東京との連絡が絶たれた米国UP通信社からの要請に応え大阪から詳細な電報を送り、これが外国に送られた大震災詳報第一報となりUPから感謝されている。

  26年6月再びニューヨーク特派員となるが、この時特派員として初めて夫人を同伴する。欧米では、お客の接待をするのに皆夫人同伴で来るから、現地流の接待ができるように、という国際記者の先輩、高石真五郎主筆の配慮によるものという。

1927(昭和2)年3月ロンドンに移り、29年帰国、6月東京日日新聞(現在の毎日新聞東京本社)外国課長となった。以後、東京で整理部長、学芸部長を務め、41年3月編集総長、8月代表取締役となり、敗戦後の45年11月現役を退いた。

戦後は46年5月日米通信社を設立、追放期間を除き社長、会長を務めたほか、毎日新聞社最高顧問、放送番組向上委員会委員長など数々の要職を歴任した。1979(昭和54)年8月27日没。

国際理解に貢献した記者に贈られるボーン・上田記念国際記者賞は、49年1月東京湾で遭難したマイルズ・ボーンUPI通信社副社長と上田碩三元電通社長の死を悼み、二人の友人、鈴木文史朗と高田の発起で制定されたものである。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)