コラム「日本の新聞人」

福島民報と毎日を結んだ戦後地方紙の代表的経営者 飛島定城(とびしま・ていじょう)

 昭和期に活躍した新聞人、とくに戦後、地方紙の経営者として手腕を発揮した。

 1904(明治37)年2月6日、青森県五所川原市に生まれ、28(昭和3)年東京帝国大学法学部を卒業して東京日日新聞(現毎日新聞=東京)に入社、社会部、宇都宮・静岡支局長などを経て、43年地方部長、翌年社会部長となる。

 45年4月、戦時下の新聞非常措置に基づき、毎日新聞社と提携した福島民報に主筆として出向、敗戦を迎えた。この時「東京3紙の代行印刷が終わると地方紙の部数は激減する。一方、中央紙にとって交通上、福島の地は東北の要になる」と、毎日新聞社に福島民報の買収を持ち掛け交渉、題字は残すが役員は退陣、土地、建物、機械を全部引き継ぎ、株は毎日側が買収するという条件で成立させた。47年1月から代表者として、県政界や財界とつながる古い性格を脱却させ、毎日新聞社との提携を強化し、編集及び工場の整備を断行、優れた経営手腕で発行部数を飛躍的に増加させた。

 60年代に入り、新社屋、新工場を完成、62年12月には有限会社を株式会社に改組。この時、大株主の毎日新聞社が増資を棄権したため株式の6割を取得、“日本一のローカルペーパー”を目標に突き進むことになった。72年1月代表取締役会長に退くが、その退任をいぶかる声が、ライバル紙の関係者からも挙がった。83年3月からは名誉会長。

  また、県内の民間放送の創設にも尽力、53年9月ラジオ福島を設立、取締役社長を務め、後に会長、最高顧問となったほか、62年6月には福島テレビの創立にも関与、取締役副社長を務めた。逸話も多く、同郷で後輩の太宰治との共同生活から、その面倒をみて苦労した話、弁舌が立って議論好き「“けんか飛”の異名まで頂戴した」と回想記にある。

 1995(平成7)年6月30日没。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)