コラム「日本の新聞人」

明治期を代表する地方紙経営者―福岡日日新聞の基礎を築く 征矢野半彌(そやの・はんや)

 西日本新聞の前身「福岡日日新聞」の基礎を築き上げた新聞人。安政4(1857)年8月5日、小倉に生まれ後、築城(ついき)に移り豊津の藩校育徳館、佐賀の鍋島藩校に学んだ。1885(明治18)年、福岡県会議員になり、福岡県自由党の実力者として活躍、94年3月には衆議院議員に当選、以後、98年から1908(明治41)年まで議員を務めた。

 福岡日日新聞は、西南戦争の真っただ中に生まれた「筑紫新報(当初は筑紫新聞)」を1880年に改題した自由民権運動の機関紙であったが、玄洋社系の競争紙「福陵新報」の登場もあって経営は苦しく、社勢挽回を託されたのが少壮の志士、征矢野であった。91年社長に就任すると、積極的な経営方針と紙面の刷新、人材の登用で、社業を発展させ、以後「福日」は、戦前の地方新聞界のトップに成長する。

 日清、日露の両戦役、日本の大陸進出の玄関口という地の利もあったが、中興の祖というより実質的な創業者であった。1901年には地方紙初のマリノニ輪転機を導入、4月3日の神武天皇祭には赤、青、紫3色の色刷り紙面を発行したほか、創立早々の「電通」を援助して通信、広告に密接な関係を結んでいる。

  特筆すべきは社員に対して「福日は政友会の機関紙となっているが、権利機関であって義務機関ではない。国家国民に不利だと思う場合は弁護する必要はない」と言い、不偏不党に対し「福日は偏理偏党で行く」と語ったという。「福日」が長く政党色を持ちながらも第一級の地方紙としての権威を保っていたのは先覚者のこのような識見によるところが大きかっただろう。11年、創刊35年と1万号記念の諸行事を盛大に挙行、編集陣を菊竹淳編集長、阿部暢太郎のコンビに刷新したが、翌 1912(明治 45)年2月9日、在職中に急逝した。

(上智大学名誉教授 春原昭彦)